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なすのよいち
那須与一


 年代     1168 - 1190
 掲載ページ  6
 活躍分野   武士

 文治元年(1185)、源平の争乱の屋島の合戦で扇の的を射た弓の名手、那須与一は弱冠17歳であったと伝えられる。与一はこの功績により源頼朝から荏原郷(現在の井原市東部)ほか4ヵ所の地頭とうい役職を賜る。那須与一は、当時の軍記物(平家物語・源平盛衰記)と那須氏の系図にしか登場しておらず研究者によってはその実在性を疑問視されているが、その一族がこの地にやって来たのは確かである。
 系図によると那須与一宗隆は、下野国(今の栃木県)を本拠として活躍していた那須氏の十一男として生まれる。もともと源氏方であったが、保元・平治の乱の後、平氏方になる。そのため源平の争乱になったときも、源氏方についたのは、十男の為隆と十一男の与一のみであった。与一は、源平の争乱後、屋島の合戦の功績で、丹波国(今の京都府)五箇庄、信濃国(今の長野県)捧庄、武蔵国(現在の埼玉県)大田庄、若狭国(現在の福井県)宮河庄と荏原庄(郷)の地頭職を賜る。与一は建久元年(1190)に頼朝が上洛する際、供としてついてゆき、その地で病にかかり亡くなったと伝えられている。
 その後、頼朝は那須氏を与一の兄弟に継がせ、その兄弟が荏原郷にやってきたとされている。この那須氏は鎌倉・室町時代にわたって荏原郷を支配し、小菅城の築城や永祥寺の建立、頂見寺の再建、甲山八幡神社・諏訪神社の勧請などを行っている。