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いけだながおき
池田長発
【1837 - 1879】

●掲載ページ : 24

●活躍分野 : 武士

池田長発は、旗本池田家(井原領主)と同じ一族である旗本池田家の四男に生まれ、16歳のとき同じ旗本である井原池田家の養子となった。幕府の学問所である昌平黌に学び、怜悧で優秀な少年として知られていた。
 幕府に仕えるようになると、その優秀さを買われ、京都町奉行・火付盗賊改・目付を歴任し、さらに外国奉行に抜擢され、遣欧使節の正使としてパリに渡っている。この使節は、一度開港した横浜を再び鎖港するための交渉か目的で、幕府の内部でも交渉は長期化するであろうとし、2、3年はかかるであろうと考えていた。そういった中、長発は、パリでナポレオン3世に謁見し、フランスの外務大臣と7回にわたり会談した。当初の予想どおり交渉は不調に終わり、鎖港以外の内容(外国船砲撃の賠償・下関海峡の外国船航行の安全・関税率の引下げ)について協定(パリ約定)に調印し、フランス以外の国との交渉を帰国した。
 帰国した長発は、パリ会談の様子を報告し、海外の情勢を説き、日本自立のための意見書を提出している。しかし、長発の意見は採用されることなく、交渉の失敗の責任を取らされ、領地の半分を没収され、蟄居・隠居を命じられた。
 その後、罪は許されたが、長発は隠居・出家し、可軒と名乗った。さらに幕府は、長発を軍艦奉行に任命するが、病気を理由に半年後に辞めている。明治維新後、岡山に引き上げ、さらに領地である井原に帰る予定であったが岡山藩主や藩士が引きとめそのまま岡山に留まった。


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