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さかたにろうろ
阪谷朗廬
【1822 - 1881】

●掲載ページ : 28

●活躍分野 : 教育者

 阪谷朗廬は、川上郡九名村(現在の井原市美星町)の庄屋を務めた坂田家に生まれ、幕府代官の手代であった父について大和・大坂に移り、大坂では大塩平八郎に学んでいる。さらに朗盧は江戸に出て、昌谷精渓・古賀侗庵に学んだ。
帰郷後は、嘉永4年(1851)に伯父の山鳴大年の援助を受け、後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町簗瀬)に桜渓塾を開いて近隣の子弟を教えた。2年後の嘉永6年に、領主である一橋家の代官友山勝次によって開設された郷校「興譲館」の初代館長として招かれた。近隣はもとより遠くからも朗廬の名声を慕って入塾者があり、寄宿生は多いときで百人を超えたという。多くの子弟を教育するばかりでなく、久坂玄瑞や渋沢栄一など著名人との交流も多く、その交流範囲は九州地方にも及んでいる。
 明治元年(1868)、芸州鎮撫軍(広島藩)が備中地方に進軍した際も朗廬は広島藩と一橋代官所の仲立ちをした。朗廬はこのときの対応の的確さやかねてからの名声もあり、興譲館を甥の坂田警軒に託し、広島藩に招かれる。そして、明治3年(1870)に藩主に従い東京へ移り、廃藩置県後は、新政府の役人として仕えた。
 朗廬は、新政府に仕えるとともに日本初の学術団体である明六社に儒者として唯一参加する。朗廬は社員の中では最長老でありながら寄稿した論文は3番目に多く、精力的に活動している。


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