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ひらくしでんちゅう
平櫛田中


 年代     1872 - 1979
 掲載ページ  54
 活躍分野   芸術家

 平櫛田中は、後月郡東江原村(現在の井原市東江原町)に生また。西江原の義之小学校卒業後、福山の平櫛家へ養子に入ったが、すぐに大阪の小間物問屋へ奉公に出る。その後、彫刻に興味を持ち、人形師中谷省古に弟子入りし、彫刻の手ほどきを受ける。結核で一時帰郷するが、大阪で彫刻の修行を行い、さらに奈良に出て多くの優れた仏像を見て、彫刻の研究を進めた。
 明治30年、本格的に彫刻を学ぶため上京し、翌年、高村光雲の門をたたき、「姉ごころ」、「幼児犬張子」など次々と作品を発表していく。また、このころ西山禾山禅師と出会い、大きな影響を受け、後の禅を主題にした名作を生み出すきっかけとなる。明治40年、高村光雲の紹介で岡倉天心と出会い、その後は天心の教えを生涯の指針として彫刻に専念する。天心との出会いから生まれた「活人箭」が出世作になり、「尋牛」「灰袋子」など傑作が生まれた。天心没後は、再興日本美術院の中心となり、中原悌次郎、石井鶴三らと裸体モデルを使って、西洋の彫塑を研究し、大正後期から昭和初期にかけて「烏有先生」「転生」「五浦釣人」など代表作を次々と発表する。
 昭和10年ごろ、田中は代表作である「鏡獅子」制作に取り掛かり、太平洋戦争で一時中断はしたが、数々の試作を発表した後、昭和33年に完成する。また、昭和19年からは東京美術学校、さらに東京芸術大学の教授として後進の指導にあたるなど日本彫刻界に大きく貢献した。地元の井原へもたびたび帰省し、市内の学校へ作品を寄付するなど地域の芸術の発展にも貢献した。彫刻界への長年の功績が認められ、昭和29年には文化功労賞、昭和37年には文化勲章を受章し、井原においても新たに名誉市民条例を設置し、名誉市民第1号となった。