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もりちかうんぺい
森近運平


 年代     1881 - 1911
 掲載ページ  52
 活躍分野   政治家

 森近運平は、後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)に生まれ、鴨方の生石高等小学校卒業後、帰郷し農業に従事していたが、明治30年にできた岡山県農事学校、さらに岡山県農学校に進み、首席で卒業した。明治35年に県庁へ入り農政を担当したがそのころから地主と小作人の階級関係の打破が必要であると考え、明治37年1月発行の『週間平民新聞』に「地主と小作人の戦争」と題して寄稿している。さらに同年7月には「岡山いろは倶楽部」を結成し、社会主義研究のための組織を設立した。このいろは倶楽部で運平は、社会主義の研究はもとより講演会活動や出版活動をするなど社会主義宣伝活動を活発  に行っている。
 しかし、活発化した運平の運動は県当局に知られ、同年12月に県職員を依願免官となっている。職を失った運平は、中央で社会主義運動を行なっていた堺利彦の誘いで大阪へ、そしてさらに東京へ出て、中央で社旗主義運動を行なうようになる。そして明治39年、日本初の合法的社会主義政党である「日本社会党」が結成されると、運平は、片山潜・堺利彦らとともに評議員に選ばれ、普通選挙運動、社会主義演説会、機関紙の発行など党の活動では中心的役割を果たしていた。
 日本社会党が党内で路線対立するなか、運平は大阪もどり「大阪平民社」を再建し、『大阪平民新聞』を機関紙として発刊する。ここでも運平は講演会活動、出版活動を活発に行うが治安当局の弾圧が強化され、運平自身も禁固刑を受け服役している。服役後は一旦帰郷するが再び上京し、社会主義活動を再開する。しかし、生活苦や党内の対立などから明治42年に高屋に帰省する。帰省後は、農業を行い地域の農事改良の先駆者を目指していたようである。
 しかし、帰郷後、わずか1年あまりで大逆事件に連座し逮捕される。運平は大逆事件の首謀者とは関係なく冤罪であったが、政府の社会主義運動を一網打尽に壊滅させる犠牲者となり、助命運動もかなわず死刑となった。